Category: 地域社会

夏祭り準備とお盆送りのことなど気慰めに。。。

暑い日が続く。

朝から公会堂に集まって夏祭りの案内送付の準備。100軒以上の家に8月7日の夏祭りの案内状を送る必要がある。なにしろこれで「花」をもらえるわけなので大事な仕事。集まった自治会役員で手分けして案内状を折りたたんで封筒にいれてあて名書き。クーラーのない旧式の公会堂では扇風機の風だけが頼り。ところで紙を扱っているとこの風が敵になる。飛ばされてしまう。

苦労して作業を終えたらこんどはこれを分担して配布する必要がある。郵送しないで手作業で配るわけだ。狭い市内に住んでいるので歩いてポスティング。でも今日はしなかった。昼近くなってあまりにも暑すぎる。明日の朝、手分けして配る。

午後は実家に行ってお盆送り。今日でお盆の期間が終わるので家に来ていた先祖の魂を墓に送り届けるわけだ。魂を背に背負った気になって墓地に。

クーラーを使わない生活が続いている。扇風機の風で何とかしのいでいる。そういえば先日妻の実家で物置を整理していたら妻の小学生のころの夏休みの日記がでてきたとか。それを見ると気温が30度を超えた日は数日だけだったと言っていた。50年以上も前の夏休み。三丁目の夕陽が見えてきた。

石巻災害支援ボランティア

6月8,9,10日の三日間、石巻で支援ボランティアに参加した。たった三日間、しかも特定の地区で行ったこと感じたことを書いてみる。あれだけ広域の大規模な災害の中ではごくごく一部のレポートです。

 

わが社には6つのミッションがあり6番目は、「私たちは企業としての社会性を向上させ、社会の良き一員であり続けるよう努力します。」となっている。この6番目のミッションの実践のために行っているのがProject6.いろいろなCSR活動をしているがその一環でCSR委員会が企画してくれた石巻市災害ボランティア。なにしろ会社がバスを用意して現地まで連れて行ってくれるし、必要な装備、食事は準備してくれるし、夜はおしゃれなリゾートホテルに宿泊できるし、なんともめぐまれたボランティア活動。

 

3.11以来、どれだけ被災者の気持ちを理解し支援できるか考えてボランティア活動を希望していた。それでも今の自分はサラリーマン。簡単に休むことはできない。若いバックパッカーでもないので寝袋、テント持参で出かけることもできない。そんな中で、会社からこうして企画を提案されたので即刻応募。参加することになった。

 

会社に8日の早朝に集合し東北道をバスで北に。1時過ぎ、石巻市にあるピースボートの活動拠点に到着。石巻港から1kmくらいのところにある被災して無人となった3階建てのオフィスビルの1階を拠点にしている。ここに支援機材を集めボランティアが寝泊りし近隣の支援現場に出向いている。水道は開通しているが電気はまだ点かない。トイレはもちろん仮設。ポータブルのガスコンロがいくつかあるがお湯を沸かすだけ。調理はできない。ここに宿泊するボランティアは数十人。皆、調理なしで食べられる食料持参で来る。皆、若い。この時期は我々のようなサラリーマンがボランティア休暇で来ている。長期で滞在する若いボランティアも多い。しっかりと統制がとれた拠点だった。

 

拠点の周辺は一階が水に浸かった半壊地域。殆どの家は一階の家具類は流されてしまったり、その後に運び出されて何もない。二階はそのまま残っている家も多い。中には内部の修繕を始めた家もある。道路には流された車とか大きなガレキはほとんど撤去されて残っていない。この辺は行政が重機を使って整備したようだ。残った各家の敷地には小さなガレキが残っている。

 

一日目は

昼過ぎに現地に到着したので2時間だけ活動。500坪くらいの畑に残ったガレキの撤去。行政はこうした私有地の中はまだ対応できていないが20人以上で作業すると二時間で終わった。全員がそれなりの達成感を感じて一日目の作業を終えることができた。

初めてのことで少し緊張して身支度を整える。長靴の中には釘の踏み抜きを防止するためのインソールを入れる。ガラス破片を扱く時には皮手袋、防塵マスク、ゴーグル、帽子、ボオランティアであることを示すビブシャツ、各班のリーダーはオレンジ色。食料を入れるザック。こんな感じの装備で出かけた。

始める前の畑。

これだけにきれいになった。

拠点に帰ってから道具の掃除。

バスで名勝松島にあるリゾートホテルに向かった。約1時間かかる。松島を見下ろす高台にある瀟洒なホテル。避難所に暮らす被災者のことを考えると申し訳無い気になる。

 

二日目。

現場に行く前に被害のひどかった地域をバスで通り抜けた。ここも道路に横たわる車とか大きなガレキはすべて撤去されていた。そして何も残っていなかった。メディアを通して見たそのままの姿が目の前に広がっていた。何と言う光景なのか。言葉がない。

気を取り直してこの日の現場に向かう。この日は近くにある小さな公園。ここは一時的に大きなガレキが堆積されていた。重機で大きなガレキは撤去したが小さなガラス片、そしてヘドロが混ざってしまった公園。ここに将来子供たちが戻って再び遊べるようにこうしたガラス片、ヘドロを撤去するのが目的。土地は乾いて硬くなっていた。ツルハシで柔らかくしないとシャベルで土を掘れなかった。堀った土を土嚢袋に詰めて道路に積み上げる。そんな単純な仕事。ここも重機は入らない場所。人手で進めるしかない。太陽が高くなって暑くなった。だんだんと皆の口数が少なくなってきた。すぐ近くで同じ拠点からきているIBMラグビー部の10人ほどがテンション高く大きな声を掛け合いながら作業している。かれらは側溝にたまっているヘドロをくみ上げていた。マチョ集団の力強い活動に我々もすごく勇気づけられた。

この日のピースボート側のリーダーはかわいらしい若い女性。独身男性の心が和んだ。そしてオジサンたちも。

 

この日だけではここでの作業は終わらなかったがとりあえずきれいになった。

 

三日目。

4時に起きた。ホテルの近くにある松島をランニングで見物した。6Km。海岸まで下っていくと街並みは想像以上にきれいだった。TVのニュースで遊覧船が復旧したと聞いていたが確かに何艘もの遊覧船、そして多くのヨットが係留されていた。しかしながら、近くに見える小島への橋は通行止めになっていたり、海岸沿いの遊歩道はところどころが寸断されていた。松尾芭蕉が歌に詠んだあの松島。個人的にはそれほどの感激はなかった。曇り空で薄暗かったせいかその美しさはあまり感じなかった。6時にはホテルを出発するので時間を気にしながら走った。有名な瑞巌寺にも行ったが境内はまだ閉じていた。外にある洞窟群だけはみることができた。

 

毎朝、ラジオ体操と拠点責任者からの指示で一日の活動が始まる。

 

この日は家を流された個人宅が現場。大きなガレキは撤去されているが流れ込んだ砂、ヘドロを撤去した。途中参加の人たちも含めて30人近くが参加した。

 

ここは全壊地域と呼ばれている海岸により近い地域。まさに全壊だ。

前日と同じように砂、ヘドロを土嚢袋に入れる作業。重機が入れば簡単な作業かもしれない。でも手作業で進めるしかない。この家の主人も来てくれてジュースの差し入れを頂いた。そんなことしなくてもいいのに。早く再建したいのだがこの地域は危険地域にしていされており今後の建築計画ができないとか。行政の一刻もはやい都市計画が必要だ。

 

この地域も新しい家が並んでいた筈。平穏な生活が続いていたのに一瞬の津波でそれがすべて消えてしまったわけだ。何とも無念なことだろう。

今回活動した地域は半壊、全壊地域でそこに住むひとは少ない。殆どが避難所生活をしているはず。残念ならら地元の方々とのふれあいは少なかった。それでも残っている地元の方々は我々が通ると深く頭を下げて「ご苦労様です」と言う。何軒かは残った家を修繕をして元の生活に戻ろうと努力している。頑張れ。

 

たった三日間の支援。被災地からみると小さな小さな「点」での支援だった。こんな小さな支援の積み重ねが大事だ。行政は大きなガレキを撤去したせいか道路は広くなった。一見すると何もなかったような街並みもある。それでもこれからは重機が入らない個人宅の整備、きめ細かい手作業による支援が重要になってくるような気がした。こんな時、ボランティアの手が必要だ。今回お世話になったピースボートもボランティアを受け入れている。食糧は自分で用意する必要があるが宿泊所は用意されるらしい。学生が休みになっていない現在は特にボランティアの数が不足しているとか。多くの人に参加してほしい。http://www.pb-kyuen.net/

 

 

息の長い支援が必要だ。支援の輪が必要だ。

成木の家

午前中は自治会活動。公民館の建て替えという大きなテーマで話をした。

現在は神社の社務所を公民館として使っているがこの建物が問題。いつ建てられたのか確かな記録がないのでわからないので何とも言えないが相当古い。すくなくとも50年以上は経過している。先日の地震で何もなかったのが奇跡と言えるくらい。床は一部が凹んでいるし天井もいまにもおちそう。当然建て替えの計画が昔からあるが時の自治会役員が避けてきた話題だ。しかし、ついに昨年から緊迫感を皆が共有して具体的な動きがでてきた。今年の大きなテーマだ。こういう話は長老に相談しないといけないね。

そして午後になって久しぶりに成木方面に自転車ででかけた。先月はランで行った所だ。久しぶりに山伏峠のタイムトライアルでも、と思って出かけて見た。ところが成木の一番奥まった地区を走っている時に素敵な日本家屋があったのでのんびりと見物してしまい気力が失せた。

そこで、先月訪れた「成木の家」のログハウスに行って見た。地元の篤志家がその土地と建物を提供してくれたところだ。そこをいろいろなレースを企画しているKFCが運営している。今日はKFC代表の大西氏もきていた。入り口にバナナとかお菓子が置いてあって自由にどうぞと書いてあった。そのた関係者が2人ほどいてやさしく招いてくれたので遠慮なくテラスでコーヒーとかお菓子、そしてその篤志家の奥様が煮た筍の煮付けもいただいた。ここで行われる自転車の東京ヒルクライムレースや高水山トレイルレースの話し、そして来月ここで行われる「成木の森トレイルレース」の話をした。一緒にいた若いローディーは昨年の東京ヒルクライムで4位入賞者とか。恐れ入りました。その方は今朝6時に大田区を出発して和田峠、松姫峠等々を走ってきたとか。これから又都内に帰る。さすがですね。軽く200kmは超えそう。

それにしてもこのログハウスはいい環境のところにある。山に囲まれすぐしたには小川が流れている。やっぱり成木はいい。東京のチロルだ。

横中馬獅子舞の日

先週末は神社の庭の草むしりをもくもくとした。それは今日の獅子舞の準備。

この地区に遠く300年ほど前から続く獅子舞の奉納が行われた。横田、中村、番場と呼ばれる地区で行われている獅子舞なので横中馬獅子舞と呼んでいるらしい。獅子は3人の大人の男が演じる。太郎、次郎、そして花子。それに天狗の面をつけた行司役の男。そして棒使いの男の子供、ささらをつかう女の子供。皆小学生だ。保存会ができていて定期的に練習しているようだ。こうした伝統はぜひとも残してほしいものだ。

早朝、長延寺に集合して地域の安全と獅子舞の成功を祈願して住職に祈祷してもらう。演者、支援者、保存会の人たちが50人くらい。その後は寺の庭で簡単な舞の奉納。

行列を作ってまずは馬場地区の八坂神社に向かう。ここは狭山丘陵を背中にした山間にある小さな神社。ここの庭で奉納舞。

近所の人たちも見学している。新緑の木々に覆われた神社にこうした伝統の舞はよく似合う。昨年の秋に自転車でおとずれた会津桧枝岐の歌舞伎場を思い出した。あそこも数百年続く素人歌舞伎の上演で有名だ。大きな杉の木に覆われた半円の階段状の歌舞伎場はまさに神が宿るような雰囲気がして素晴らしかった。

動画はここ http://www.youtube.com/watch?v=weBCudyq5CE

http://www.youtube.com/watch?v=sjSGEt0pZQo

次は横田地区の七所神社。ここでも同じような奉納の舞。子供たちはそろそろ疲れてきたが少女たちは皆初めての化粧をしてなんともかわいらしい。多くのカメラマンがシャッターを切っていた。

次は中村地区の熊野神社。ここでも奉納の舞。ここで昼食。

午後は本庭舞と呼ばれるメインイベントが50分ほど続く。演者は体力が必要だ。この舞にはストーリーがあるらしい。聞くところによると、太郎と次郎が花子を巡って争いになるが天狗の采配で仲直りをするらしいが詳細は不明。どこかに記録があるかもしれないのでいずれ調べてみたいものだ。

素晴らし天気の下でこうして地域の伝統行事に参加できたことは嬉しかった。これまでには断片的にしか見てなかったが通してみると深いものを感じた。天狗を演じた方は自治会で一緒に役員をしたことがあるかた。腰の使い方、実に味がある。

それにしても、まずお寺で安全を祈願してもらってそれから神社に舞を奉納。これってかなり日本的にです。

静かな週末でした

昨日は久しぶりで自転車のロングライドを、と思っていた。かってにGreaterLoopと呼んでいる私的なコース。自宅を起点にして大きな周回コースが3っつある。

自宅ー奥多摩ー風張峠ー五日市ー自宅 がStandard Loop 110Kmコース
自宅ー奥多摩ー今川峠ー松姫峠ー大月ー相模湖ー大垂水峠ー八王子ー自宅 がLarge Loopコース 140Km
自宅ー奥多摩0ー柳沢峠ー塩山ー笹子峠ー大月ー雛鶴峠ー相模湖ー大垂水峠ー八王子ー自宅  Greater Loop 200Km
この中で、Greater Loopを走ってから何年かたってしまった。久々に気持ちが盛り上がったので土曜日に計画していた。ところが荒天の予報。すべての天気予報が風雨が強くなるとの予報。諦めて土曜日は静かに自宅で過ごした。引きこもり。ところが我が家の周辺は一向に雨が降らない。何じゃ!と言う感じだが大人になって静かに過ごした。

そして、今日の日曜日は晴れて春爛漫。庭にも程よい加減に野草が伸びてきた。タンポポがきれいだ。家人のだれも植えた記憶がないチューリップが一本だけ赤い花を咲かせている。静かで暖かい朝だ。

そして自治会の役員として神社の境内の草むしりをした。一面に冬草がはびこっている。冬草はなんとも強情だ。しっかりと根を張って頑張っている。人間もこれでないといけないのかな。しゃがみこんでただひたすらに草をむしり取る。何も考えないこうした活動って好きだ。ただひたすら。ランニングと同じですね。こんどの金曜日にはここで伝統の獅子舞が奉納される。役員は参加することになっている。

今日は叔母の命日なので親せきが何人か集まって墓参りをした。ここでも掃除。草むしりもした。一緒に来た姪一家の1歳児がなんとも注目の的。元気な子だ。綺麗になった墓に花と線香の香り。いいものだ。見上げると狭山丘陵の木々は新緑。静かな春だ。こうして墓参ができることも幸せなのかもしれない。避難を余儀なくされた方々のことを考えた。墓を流された方もいるでしょう。流されなくとも帰れない方もいるでしょう。なんともすっきりとしない毎日がづつく。

自治会はこのまま消えていくのでしょうか

東北の被災者たちは地域毎のグループとして避難を強く希望しているとか。地域社会の絆がそうしているのでしょう。これにより困難な状況の中でもお互いに助け合って生活を継続できるということだ。

昨日の午前中は地元の自治会の今年の新役員の顔合わせがあった。自治会にはかつて7役と呼ばれる役員が7名いた。数年前に役員を引き受けてもらえる方を見つけるのが難しくなり6役として6名の役員にした。役員になると毎年ことなる役割を担当しながらもいろいろな行事は共同して進めていく。つまり役員になると6年間は何らかの役割を担当することになり、最終年には会長になり翌年は退任となる。

私はことしで7年目。会長だ。ところが今年は退任した会員の補充ができていない。現時点では5人。これまでいろいろな方に声をかけて役員就任を依頼したが快い返事がもらえてない。

自治会は5~6世帯が一つの隣組を形成し現在16組。約100軒が自治会に加入している。加入率は30~40%でしょう。加入者の多くは古くからの住人で新たに移転してきた方々は入会していないと思われる。加入世帯も年々減少傾向。これは全国的な傾向らしい。かつては向こう三軒両隣、と呼ばれた隣組制度が定着していた。だれもの隣組に加入していていた。このネットワークを通して自治体からの指示、情報が伝えられてきた。情報伝達の手段だった。それと同時に娯楽もこの単位で行われてきた。神社を中心とした春と秋のお祭り。夏祭り。防災、防犯、子供会、それぞれがこの隣組の制度に組み込まれていた。これに小学校の子供会が加わって地域の草の根の組織が作られていた。まさに「三丁目の夕陽」のころの世界である。

私が小学生のころは5月5日は子供たちが公会堂に集まって茶話会を開いたものだ。今では、茶話会と言うことは死語になってしまった。「柱の傷はおととしの五月五日の背比べ~~~~」と皆で歌った。若者は青年団でいろいろな活動をしていた。祭りの神輿も担いでいた。お酒の匂いをぷんぷんさせながら太い掛け声をかけて神輿を担ぐ大人をたくましく感じて見ていたものだ。

こんな地域社会がだんたんと消えている。この自治会でもこれまで通りに夏祭り、正月、三月の神社のお祭り、その他の行事を行っているが参加者は毎年減少。自治会役員、PTA役員、その関係者がほとんどで一般の参加者は非常に少ない。まさに関係者だけの行事が多くなっている。

お金さえだせばいろいろな娯楽が容易に楽しめるようになった。親しいグループで好きな時にいろいろな楽しみができるようになった。情報はいろいろなメディアを通して入るようになった。遠くの人たちともコミュニケーションできる通信手段が利用できるようになった。

いろいろな理由で自治会、隣組に頼らなくとも生活できるような現状になっているのでしょう。

これから自治会はどうなるのでしょう。存続するのでしょうか。存続する意味があるのでしょうか。自治会がなくなったらどうなるでしょうか。いろいろなことを考えている状態。東北地方の被災者の行動がヒントにならないか思案中。

午前の役員顔合わせに続いて午後になって寿会と呼ばれる老人会の総会に招かれた。かつては自治会の役員をしていた方々。意外と活発に活動している様子が見えた。老人は元気なのか。年齢から言うと私にも参加資格があるがまだ遠慮したい。

The News Paperのチャリティーライブ

時事問題を扱っているThe News Paperが我が田舎町に来てくれてチャリティーライブを開いてくれた。私と一緒に自治会活動をしている方が毎年公演に招致しているのでよく知っているらしい。この方の計らいでチャリティーのために駆けつけてくれた。

午後4時開演。会場は近所のレストランの2階。60~70人くらいが集まった。チャリティーなのでもちろん無償で公演をしてくれた。どうやら震災の後はこうした方々の出番はめっきりと減っているらしい。今日の登場人物は、枝野さん、石場さん、谷垣さん、麻生さん、田中さん、蓮舫さん、などなど。震災と言うデリケートな話題で難しかったと思うがそれぞれが楽しい話術を提供してくれた。笑いの絶えない一時間あまりだった。

これまでは自粛、自粛の一言だったがここにきて、やっぱり普段通りに生活しようよ、と言う雰囲気が強くなったような気がする。今日のライブも、いつまでも落ち込んでいないで笑いのある生活取り戻そうよ、と言う調子の公演だった。そう、被災しなかった我々はいつもの通りに経済活動をすることで間接的に被災者を助けることになるからね。

そう、チャリティーです。見えない「思い」をしっかりと見える形にして帰りました。

谷垣さんと石場さん   蓮舫さんと枝野さん

午前中は自治会の総会。例年通りに30分のシャンシャン総会。ただ、今年は総会後の飲食は中止。この経費を義捐金として市に提供することにした。しかしながら、数人の役員だけは蕎麦屋で軽くお疲れさまの打ち上げ。三人の役員が引退。いよいよ会長です。行事計画をみると出番が多い。こんなにも週末を使うとなると自転車は、ランニングは、どうなるか心配になる。

午後は録画してあった「三年B組:金八先生」の最終回を一気に見た。エネルギー、情熱、優しさ。この番組は仮想現実のような番組だ。子供たちが中学生のころからずっと見ていたので終わってしまうのが残念だがいつかは卒業しないといけない訳だ。

The News Paperの後、夜は妻の誕生日のお祝いで家族で寿司屋で飲んだ。

今年も咲いたモクレン

義父が生前に植えた白いモクレンの花が今年も咲いた。

今日は休暇。地震後のガソリン事情で行けなかった彼岸参りに千葉まで行った。高速道路を走る車は心持ち皆「おとなしい」運転をしていた気がする。

平成22年の終わりにあたって

紅白を横目で見ながら振り返ってみる。

今年のハイライトは何と言ってもランニングを始めたということに尽きる。3月に自転車グループで都内の花見見物ツアーをした際に「6月に行われる北マラソンにでないか」と誘われた。それまでに何人かの知人がランニングをしているのを聞いて興味を持っていたところに火が付いた。その場で参加を承諾。それから練習が始まった。4月の走行距離、65Km。慣れない靴で近所を走ってみた。ショッピングモール界隈。そして多摩湖自転車道。ある日、狭山湖と多摩湖の周辺をゆっくりと走った時に合計18Kmになった。意外と走れるものだ、とこの時に長距離を走れる感じがつかめた。5月に83Km。もともとトレイルを走ることに興味があったので青梅丘陵を走ってみた。楽しかった。かつてMTBで走ったようなところを今はランニングしている。6月は103Km。初めてハーフマラソン大会に参加した。それから距離は順調に伸びて12月には187Km走った。4月からの総距離は990Km

自転車にも乗っていた。5月には知人と自宅ー日光ー郡山ー水戸ー千葉までの4日間のツアーをした。10月には奥会津ー只見のツアーもした。やはり田舎道を長距離走るのは楽しい。しかし、ランニングの距離が延びるのに反比例して自転車の走行距離は短くなった。年間の総走行距離は6362km。昨年は7950Kmだった。

診断士関連では実務補修の副指導員として5日間だけ若い診断士と過ごした。充実したいい時間だった。

PMP関連では「プログラム標準」の翻訳に参加。10名以上が参加したプロジェクトの一端を担ったが中途半端に終わってしまった。単に翻訳しただけで終わった気がする。そして、もう一つ。Configuration Management Standard。翻訳委員会に入会した2008年の秋に着手してから足かけ3年かかった。最初の翻訳をほとんど一人で済ませたがその後の監修を担当する人が見つからなかったり監修後の手直しに何人かがたずさわってきて時間がかかった。それでも10月頃に出版にたどりついた。後半はあまり時間が取れなかったが最初から手をつけた翻訳だったので完成は嬉しかった。

自治会では副会長になった。大きなトピックとしては自治会の活動に使っている熊野神社の社務所の建て替えの計画が具体化してきたこと。準備委員会が発足になり会合を何回かすすめ地域の長老からも過去のいきさつ、意見を聞いて少しづつ話が進んできた。まだまだ先は長い。

今年はひさびさに山岳会OBたちと北海道の山に登れたのもハイライト。

もう一つ。11月からこのブログを始めてみた。ウエッブサイトを構築するツールであるWordPressに興味があったのでこれを使ってみたかった次第。

こんな感じの一年だった。何と言っても健康に過ごせたことを感謝している。ツイッターでは何回も「ああ、わしゃ幸せじゃ」とつぶやいたものだ。