とおあし(遠足)

日本での初めてのマラソンは1855年安政の時代に安中藩で行われたとか。これを「安政のとおあし」と呼ぶ。NHKで放送していました。

記録によると、安中城を出発して、安中宿、松井田宿、碓井関所を経て碓井峠にある熊野権現神社までの28Km、標高差1000mを走ったそうだ。あくまでも藩士の心身の鍛錬を目的にしていたそうだがかなりの難コースである。

これにちなんだマラソン大会が毎年5月に安中市で「侍マラソン」として開催されているのを今知った。今では二時間少しで完走する参加者がいるそうだがその昔はどのくらいの時間で走ったのでしょう。今のようにしっかりした靴もなく、わらじでの走りは難儀したはずです。こうしたランニングにしてもかつての修験僧が登った急峻な岩山にしても貧弱な装備でよくも走り、登ったものだ。

静かな一日に思うこと

前夜の天気予報だと今日は雨。したがって体育会系の予定は立てないで文化系活動を、と思っていた。ところが朝、目が覚めると鳥の鳴き声がうるさい。雨は降っていないのかな、と外を見るとなんと晴れ。ありゃまあ、と言う感じで不思議に落胆してしまった。予定が狂ったことでの落胆でした。

でもって、気持ちを取り直して多摩湖コース15kmのラン。散髪。そして家人が出払った午後は静かにReadingしたりネットで秋のランニングの大会を物色。9月に2つの大会にエントリーしました。トレイルとハーフです。有名どころはすでに締め切ってますね。10月以降の状況はまだ視界不良なのでエントリーできてない。

最近読んだ本。「言葉の誕生を科学する」(小川洋子+岡ノ谷一夫)。なんとも不思議な本です。言葉を話す動物は人間だけでなく鳥も、クジラも話すらしい。少なくともいろいろな周波数、トーンの鳴き声、声紋、をいろいろと組み合わせてコミュニケーションを取っているらしい。こうした動物の鳴き声だとかさえずりをいろいろと研究している神経生態学者と作家との対談集。

対談の内容はあまり理解できない部分が多かった。門外漢には具体的なイメージが浮かんでこない。それでもところどころになるほど、と思うような言葉もあった。そのうちのひとつがこれ。私なりの解釈です。誤っているかもしれません。

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現代病と言える生活習慣病。かつてはいつ食糧が不足するかわからなかったので体内に脂肪と言うかたちでエネルギーをたくわえてきた。ところが、現代では多くの場合この食料不足は考えられない。なのにこれまで通りにエネルギーを蓄えようとしてきた。この過剰エネルギー摂取によってもたらされる弊害。これが生活習慣病。

現代では同様に、情報習慣病も考えられる。

この解説をする前に。コミュニケーションには、意図のコミュニケーションと内容のコミュニケーションと二種類ある。前者は「~してほしい」「~と思う」と言うことを伝えようとするコミュニケーション。そして後者は、ことがらを伝えるコミュニケーション。つまり「事実、様子」を伝えること。確かに自分が書くメールの内容もこの二種類に分けることができそうだ。

現在のような情報社会で「内容のコミュニケーション」がほとんどである。これは、メール、ブログ、SNS、、、などで伝わっているのはこうした「ことがら」つまり誰が何をした、今度何をする、これが発表になった、、、、などなど。こうした「内容のコミュニケーション」の特徴は「つながっていること自体」を確認するためのコミュニケーションである場合が多い。

過去には、敵が攻めてくるから態勢を整えよ、と言った「意図のコミュニケーション」が多くそれは死活問題だった。ところおが最近の「内容のコミュニケーション」では生きるためのコミュニケーションと言うよりも「つながりを確認する」コミュニケーションになってきている。こうしたコミュニケーションはもちろん必要であり否定はできない。

しかし、生死に無関係な内容のコミュニケーションの過多による弊害があるのではと本の中のお二人は言っている。それを情報習慣病と呼んでいる。

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なるほど、なんとなく納得できる部分がある。誰が何をした、今どこにいる、と言ったコミュニケーションがどれだけ意味を持っているか。意味はある。こうした日常の小さな内容のコミュニケーションを積み重ねてより深いコミュニケーションがとれるようになると言う意味はある。この辺は「tsudaる」、で有名な津田大介さんが主張していることだ。ただし、こうしたコミュニケーションが過多になることの弊害をあのお二人が警鐘しているわけだ。どんだけが「過多」になるのかはたぶん個人によってことなることでしょう。自分への警鐘として受け止めた次第です。

北丹沢山岳耐久レース試走

今週末はトレイルランの企画に参加した。

7月3日に行われる「北丹沢山岳耐久レース」の試走。と言っても私は参加しない。何しろフルマラソンの距離を走り、登る過酷なレースだ。

このレースには「トレイルラン」の文字は入っていない。コースの一部だけだが試走してみてその理由が理解できた。

舗装道路をしばらく走ってから山道に入る。

この山道はほとんど走れない斜度だ。ヨイショっと足を上げて手を上げた足の膝に乗せて力をいれて登る。この繰り返し。しかも、前夜の雨で滑る。手を使いたいような所もある。息遣いが荒くなるし汗はしたたるしそれはそれは大変な登りだ。こんな所を走ることは無理。

杉林の中はガスがかかっていて神秘的な雰囲気。気温は低いので休んでいると汗が急激に冷えて寒くなる。直ぐに登り始める。こんな登りが約三時間。

ようやく下りになった。ここも急峻な下りだが道が整備されていて走れた。ただ、前夜の雨で滑り柔らかくなった土が崩れる。せっかく整備した道が壊れる。乾いた時に元どおりになって欲しいものだ。

九十九折れの急な坂道を延々と下って神ノ川ヒュッテに到着。ここまでが公称18.5km。

三名の元気な若者は先に進んだが私を含む残りの方々はここから林道を走って出発点である「いやしの湯」に戻った。この林道も長い。延々と10km。

このコースはやはり山岳耐久レースだ。トレイルランのコースではなさそうだ。今回試走した部分だけをみてこのレース全体を判断することはしないが今日のコースはあまり好きになれない。

初めての筑波山ヒルクライム

茨城県のローディーにとって聖地にちかい筑波山。多摩西部からはちいとばかり遠く、これまで自転車で走る機会がなかった。つくばのりんりんロードは何回か走ったことがあるがそれで終わっていた。

そんな時にマイミクさんが企画してくれたので参加。石巻のボランティア活動で不慣れな作業をしたせいか昨日の土曜日はなんとなく力がでずに二つの予定をキャンセルしてしまった。関係者には迷惑をかけてしまった。

昨日の休息で今日は元気。早朝にでかけて2時間半。集合場所のつくばエクスプレスつくば駅に到着。今日の参加者は17,8名。多い。初めての人も多い。すぐに走り始めると道の両脇に実に立派な門をかまえた家がいくつも並んでいた。地図をみると小田城址があるので城下町の名残なのか。それともこの辺の豪農の末裔か。少なくとも商業地区とは思えない。

そんな静かな道を進んで不動峠への登りに入った。

ここは4Km、300mの登り。一汗かいてさらに200m上のつつじヶ丘の駐車場へ。ここが終点。一旦下ってから蕎麦昼食。あらためて不動峠に登り返して出発点のつくば駅に帰還。

初めての筑波山。走りやすい道が多くていいね。

石巻災害支援ボランティア

6月8,9,10日の三日間、石巻で支援ボランティアに参加した。たった三日間、しかも特定の地区で行ったこと感じたことを書いてみる。あれだけ広域の大規模な災害の中ではごくごく一部のレポートです。

 

わが社には6つのミッションがあり6番目は、「私たちは企業としての社会性を向上させ、社会の良き一員であり続けるよう努力します。」となっている。この6番目のミッションの実践のために行っているのがProject6.いろいろなCSR活動をしているがその一環でCSR委員会が企画してくれた石巻市災害ボランティア。なにしろ会社がバスを用意して現地まで連れて行ってくれるし、必要な装備、食事は準備してくれるし、夜はおしゃれなリゾートホテルに宿泊できるし、なんともめぐまれたボランティア活動。

 

3.11以来、どれだけ被災者の気持ちを理解し支援できるか考えてボランティア活動を希望していた。それでも今の自分はサラリーマン。簡単に休むことはできない。若いバックパッカーでもないので寝袋、テント持参で出かけることもできない。そんな中で、会社からこうして企画を提案されたので即刻応募。参加することになった。

 

会社に8日の早朝に集合し東北道をバスで北に。1時過ぎ、石巻市にあるピースボートの活動拠点に到着。石巻港から1kmくらいのところにある被災して無人となった3階建てのオフィスビルの1階を拠点にしている。ここに支援機材を集めボランティアが寝泊りし近隣の支援現場に出向いている。水道は開通しているが電気はまだ点かない。トイレはもちろん仮設。ポータブルのガスコンロがいくつかあるがお湯を沸かすだけ。調理はできない。ここに宿泊するボランティアは数十人。皆、調理なしで食べられる食料持参で来る。皆、若い。この時期は我々のようなサラリーマンがボランティア休暇で来ている。長期で滞在する若いボランティアも多い。しっかりと統制がとれた拠点だった。

 

拠点の周辺は一階が水に浸かった半壊地域。殆どの家は一階の家具類は流されてしまったり、その後に運び出されて何もない。二階はそのまま残っている家も多い。中には内部の修繕を始めた家もある。道路には流された車とか大きなガレキはほとんど撤去されて残っていない。この辺は行政が重機を使って整備したようだ。残った各家の敷地には小さなガレキが残っている。

 

一日目は

昼過ぎに現地に到着したので2時間だけ活動。500坪くらいの畑に残ったガレキの撤去。行政はこうした私有地の中はまだ対応できていないが20人以上で作業すると二時間で終わった。全員がそれなりの達成感を感じて一日目の作業を終えることができた。

初めてのことで少し緊張して身支度を整える。長靴の中には釘の踏み抜きを防止するためのインソールを入れる。ガラス破片を扱く時には皮手袋、防塵マスク、ゴーグル、帽子、ボオランティアであることを示すビブシャツ、各班のリーダーはオレンジ色。食料を入れるザック。こんな感じの装備で出かけた。

始める前の畑。

これだけにきれいになった。

拠点に帰ってから道具の掃除。

バスで名勝松島にあるリゾートホテルに向かった。約1時間かかる。松島を見下ろす高台にある瀟洒なホテル。避難所に暮らす被災者のことを考えると申し訳無い気になる。

 

二日目。

現場に行く前に被害のひどかった地域をバスで通り抜けた。ここも道路に横たわる車とか大きなガレキはすべて撤去されていた。そして何も残っていなかった。メディアを通して見たそのままの姿が目の前に広がっていた。何と言う光景なのか。言葉がない。

気を取り直してこの日の現場に向かう。この日は近くにある小さな公園。ここは一時的に大きなガレキが堆積されていた。重機で大きなガレキは撤去したが小さなガラス片、そしてヘドロが混ざってしまった公園。ここに将来子供たちが戻って再び遊べるようにこうしたガラス片、ヘドロを撤去するのが目的。土地は乾いて硬くなっていた。ツルハシで柔らかくしないとシャベルで土を掘れなかった。堀った土を土嚢袋に詰めて道路に積み上げる。そんな単純な仕事。ここも重機は入らない場所。人手で進めるしかない。太陽が高くなって暑くなった。だんだんと皆の口数が少なくなってきた。すぐ近くで同じ拠点からきているIBMラグビー部の10人ほどがテンション高く大きな声を掛け合いながら作業している。かれらは側溝にたまっているヘドロをくみ上げていた。マチョ集団の力強い活動に我々もすごく勇気づけられた。

この日のピースボート側のリーダーはかわいらしい若い女性。独身男性の心が和んだ。そしてオジサンたちも。

 

この日だけではここでの作業は終わらなかったがとりあえずきれいになった。

 

三日目。

4時に起きた。ホテルの近くにある松島をランニングで見物した。6Km。海岸まで下っていくと街並みは想像以上にきれいだった。TVのニュースで遊覧船が復旧したと聞いていたが確かに何艘もの遊覧船、そして多くのヨットが係留されていた。しかしながら、近くに見える小島への橋は通行止めになっていたり、海岸沿いの遊歩道はところどころが寸断されていた。松尾芭蕉が歌に詠んだあの松島。個人的にはそれほどの感激はなかった。曇り空で薄暗かったせいかその美しさはあまり感じなかった。6時にはホテルを出発するので時間を気にしながら走った。有名な瑞巌寺にも行ったが境内はまだ閉じていた。外にある洞窟群だけはみることができた。

 

毎朝、ラジオ体操と拠点責任者からの指示で一日の活動が始まる。

 

この日は家を流された個人宅が現場。大きなガレキは撤去されているが流れ込んだ砂、ヘドロを撤去した。途中参加の人たちも含めて30人近くが参加した。

 

ここは全壊地域と呼ばれている海岸により近い地域。まさに全壊だ。

前日と同じように砂、ヘドロを土嚢袋に入れる作業。重機が入れば簡単な作業かもしれない。でも手作業で進めるしかない。この家の主人も来てくれてジュースの差し入れを頂いた。そんなことしなくてもいいのに。早く再建したいのだがこの地域は危険地域にしていされており今後の建築計画ができないとか。行政の一刻もはやい都市計画が必要だ。

 

この地域も新しい家が並んでいた筈。平穏な生活が続いていたのに一瞬の津波でそれがすべて消えてしまったわけだ。何とも無念なことだろう。

今回活動した地域は半壊、全壊地域でそこに住むひとは少ない。殆どが避難所生活をしているはず。残念ならら地元の方々とのふれあいは少なかった。それでも残っている地元の方々は我々が通ると深く頭を下げて「ご苦労様です」と言う。何軒かは残った家を修繕をして元の生活に戻ろうと努力している。頑張れ。

 

たった三日間の支援。被災地からみると小さな小さな「点」での支援だった。こんな小さな支援の積み重ねが大事だ。行政は大きなガレキを撤去したせいか道路は広くなった。一見すると何もなかったような街並みもある。それでもこれからは重機が入らない個人宅の整備、きめ細かい手作業による支援が重要になってくるような気がした。こんな時、ボランティアの手が必要だ。今回お世話になったピースボートもボランティアを受け入れている。食糧は自分で用意する必要があるが宿泊所は用意されるらしい。学生が休みになっていない現在は特にボランティアの数が不足しているとか。多くの人に参加してほしい。http://www.pb-kyuen.net/

 

 

息の長い支援が必要だ。支援の輪が必要だ。

富士忍野高原トレイルレー

久々のレース参加でした。忍野村が主催するこの大会は今年が二回目。評判がいい大会と聞いていたことと富士山をドーンと見ながら走れるのを夢見て参加した。思いがかなった楽しいレースだった。思い残すことはない。

前日の土曜日に忍野村に入った。宿に行く前に会場に行きマイミクさんと合流。登録をすませ本部からのコース説明と招待選手のトークセッションを聞いた。今回は間瀬ちがやさんと福田六花さんが招待選手。おふたりとも多彩で魅力的ななかたですね。プロフィールをみて感心してしまいました。

せっかく忍野村に来たので「忍野八海」を見学。多くの観光客でにぎわっていた。ここには10年ほどまえに来たことがあるがその時の方が水がきれいだったような印象がある。

当日は朝が早い。忍野中学校が会場。ここの校庭はなんとも広い。野球、テニス、サッカー、なんでもいっぺんにできる広さだ。そして目の前にどっかーんと富士山が足先から頭の先まで見える。こんな風景を見ながら育った子供たちはどこか違う人間になるはずだ。うらやましい。残念ならこの日は富士山があまりきれいに見えなかった。ちなみにこの忍野村は裕福そうだ。自衛隊の演習場が近くにあるのでその見返りでいろいろな施設が提供されているようだ。この中学校の建物も立派。

このレースはロングコースが30Km,ミドルコースが20Km,ショートコースが10Kmと言われている。私はミドル。マイミクさん達はロングに参加。先行のロングの方々は7:30に花火とともに出発。

そして私が参加するミドルは7:50にスタート。カウントダウンが始まると全員が盛り上がる。花火も上がる。いい雰囲気だ。

出発して3kmほどは田んぼのあぜ道みたいなところを走る。周囲も快調に走っている。天気は晴れ。特別に暑くなく快適なランニング日和だ。3Km走ると立ノ塚峠まで350mの登りが始まる。早くも息がきれてきて前が歩くとならって歩く。特別に急な登りではないが歩いたり走ったり。イメージトレーニングでは快適にどんどん走る姿を想像していたが現実がその通りに行かないものだ。息を切らして峠に到着。給水を受ける。

ここからは快適にしばしの下りと平地のランを楽しんだ。

新緑が美しい。そしと道は柔らかい土。非常に走りやすい。

二十曲峠で食料を補給。バナナに塩を点けて食べるとナトリウムとカリウムが摂取できて痙攣防止になると前日のトークセッションで話題になったせいかそれを試す人が多かった。私も試したがいい感じだった。いいと思う。

いつもこうした補給所でのボランティアには感謝する。今回も9000人の村民こぞってのボランティアのようだ。

ここからの眺めを期待していたが残念ながらあまりよくなかった。英気を養って石割山への登りに挑戦。殆どのかたがぞろぞろと歩いた。遠回りをしてきたロングの選手もこの辺は同じコースを走ることになる。さすがにロングの選手はあとからきて追い抜いて行く。

石割山、大平山まで登るとあとは下るだけ。せっかくの景色も見納めになるので記念写真を撮った。

こうしてリラックスして走れるのがトレイルランのいいところだ。時間のプレッシャーを感じない。ロードを走るときはどうしても時間を気にしてゆとりがなくなる。トレイルを走っているときはできるだけ長いあいだトレイルに残っていたい気分になる。走るのが遅いことのいいわけでなく本当にそう思う。今回のように柔らかい土の上を豪快な富士山を見ながら走れるなんてなんと幸せなことだ。こんな幸せな気分はできるだけ長い間味わいたい。

石割山から太平山までの稜線も気持ちよかった。うっすらと富士山の頭も見える。

大平山からは下りだけ。

5kmほどの林道をくだると田んぼ道にもどる。そして出発点の忍野中学校でゴール。記録は2時間47分。でも記録には興味ないのでこんなもんでしょう。思う存分に楽しみました。トレールランって楽しいものだ。

忍野村特製の豆腐丼を賞味。まあ、それなりでした。