静かな一日に思うこと

前夜の天気予報だと今日は雨。したがって体育会系の予定は立てないで文化系活動を、と思っていた。ところが朝、目が覚めると鳥の鳴き声がうるさい。雨は降っていないのかな、と外を見るとなんと晴れ。ありゃまあ、と言う感じで不思議に落胆してしまった。予定が狂ったことでの落胆でした。

でもって、気持ちを取り直して多摩湖コース15kmのラン。散髪。そして家人が出払った午後は静かにReadingしたりネットで秋のランニングの大会を物色。9月に2つの大会にエントリーしました。トレイルとハーフです。有名どころはすでに締め切ってますね。10月以降の状況はまだ視界不良なのでエントリーできてない。

最近読んだ本。「言葉の誕生を科学する」(小川洋子+岡ノ谷一夫)。なんとも不思議な本です。言葉を話す動物は人間だけでなく鳥も、クジラも話すらしい。少なくともいろいろな周波数、トーンの鳴き声、声紋、をいろいろと組み合わせてコミュニケーションを取っているらしい。こうした動物の鳴き声だとかさえずりをいろいろと研究している神経生態学者と作家との対談集。

対談の内容はあまり理解できない部分が多かった。門外漢には具体的なイメージが浮かんでこない。それでもところどころになるほど、と思うような言葉もあった。そのうちのひとつがこれ。私なりの解釈です。誤っているかもしれません。

****************

現代病と言える生活習慣病。かつてはいつ食糧が不足するかわからなかったので体内に脂肪と言うかたちでエネルギーをたくわえてきた。ところが、現代では多くの場合この食料不足は考えられない。なのにこれまで通りにエネルギーを蓄えようとしてきた。この過剰エネルギー摂取によってもたらされる弊害。これが生活習慣病。

現代では同様に、情報習慣病も考えられる。

この解説をする前に。コミュニケーションには、意図のコミュニケーションと内容のコミュニケーションと二種類ある。前者は「~してほしい」「~と思う」と言うことを伝えようとするコミュニケーション。そして後者は、ことがらを伝えるコミュニケーション。つまり「事実、様子」を伝えること。確かに自分が書くメールの内容もこの二種類に分けることができそうだ。

現在のような情報社会で「内容のコミュニケーション」がほとんどである。これは、メール、ブログ、SNS、、、などで伝わっているのはこうした「ことがら」つまり誰が何をした、今度何をする、これが発表になった、、、、などなど。こうした「内容のコミュニケーション」の特徴は「つながっていること自体」を確認するためのコミュニケーションである場合が多い。

過去には、敵が攻めてくるから態勢を整えよ、と言った「意図のコミュニケーション」が多くそれは死活問題だった。ところおが最近の「内容のコミュニケーション」では生きるためのコミュニケーションと言うよりも「つながりを確認する」コミュニケーションになってきている。こうしたコミュニケーションはもちろん必要であり否定はできない。

しかし、生死に無関係な内容のコミュニケーションの過多による弊害があるのではと本の中のお二人は言っている。それを情報習慣病と呼んでいる。

*****************

なるほど、なんとなく納得できる部分がある。誰が何をした、今どこにいる、と言ったコミュニケーションがどれだけ意味を持っているか。意味はある。こうした日常の小さな内容のコミュニケーションを積み重ねてより深いコミュニケーションがとれるようになると言う意味はある。この辺は「tsudaる」、で有名な津田大介さんが主張していることだ。ただし、こうしたコミュニケーションが過多になることの弊害をあのお二人が警鐘しているわけだ。どんだけが「過多」になるのかはたぶん個人によってことなることでしょう。自分への警鐘として受け止めた次第です。

コメントはまだありません

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URI

Leave a comment

CAPTCHA