エレベータの中の会話:ケータイを持ったサル

二週間近い年末年始の休暇に入って5日目。息子は安定しているので妻と交代で面会に行っている。面会に行かない日は静かなゆったりとした一日を送っている。先日、神田の古本屋で購入した何冊かのうちの一冊「ケータイを持ったサル」(正高信男)で昨日読んでみた。

無人のエレベータに知り合いの二人が乗り込む。そして会話が始まる。ここに途中の階から第三者が一人乗り込んでくる。このとき先に乗っていた二人の会話はどうなるか。この実験結果をみると、1986年での結果は80%以上が会話を中止した。ところが2002年の調査ではそれが50%になっていた。

 

私は当然のように会話を中断する。それは私的な二人の会話を聞かれたくないから。つまり第三者が入ったことでそれまでの私的空間が公的空間になったわけだ。こうした公的空間で私的な会話はしたくない。おそらく大多数の大人はこうした反応をするでしょう。ところが若い人たちは会話を止めない場合が多い。これは個人的な経験だ。

もう一つ。朝の通勤電車の中はいつも静かだ。居眠りする人、新聞を読む人。じっと外を見ている人。。。。。たまたま知人と居合わせたひとは小声で会話する。これがこれまでの経験。ところがそんな中に複数の高校生が入ると会話は止まない。それもその車両の全員に聞こえるような大きさの会話。内容はまさに仲間内の私的な会話だ。

上のふたつの例に共通しているのは私的空間と公共空間の切り分けをしていないと言うことだ。たとえ公共空間に身をおいていたとしても自身では私的空間にいると思っているのだ。

個人的には私的空間が非常に狭いと思っている。レストラン、居酒屋で自分たちの会話が聞こえそうな隣の席に見知らぬ人がいる場合、非常に居心地が悪い。自分たちの会話を聞かれることへの抵抗感が強い。こうした感覚はおそらく現在の中高年以上のかたは同じように持っていると思う。通勤電車の中の会話もそれなりの年代の方々は小声で話しているが20代より若い方々はあたかも自分たちだけの部屋にいるがごとく大きな声で私的内容の会話をする。

何故、こうした傾向になってきたか、この本で解説している。

子離れ、親離れできない親密なスキンシップの中で育てられたことで私的空間の居心地の良さに慣れ親しんできた人たち。これにより「内こもり」の傾向がある。この「内こもり」の快適さから一般的な公共空間にでても私的空間を自分の周囲に作り出す。と言うことが趣旨である。

 

霊長類を研究しているいわゆるサル学者が著した社会学本で2004年の発売当初はベストセラーになったらしい。サル学者として若い世代がだんだんとサル化していると主張しその理由をいくつか書いているがかなり無理のある理由とその後ろ盾となるデータが並んでいる。サル学者としての知見からこうした結論を導いたのでしょうがそれぞれが理由の一つとなっていることはあり得る。しかし、本当の理由は他にあるようなきがするがそれが何かは分からない。

いずれにしても、私は公共の場で他に聞こえるような大きな声で私的なことをあれこれとしゃべることは「はしたない」と思う世代である。

 

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