自粛生活と「私の日本地図ー壱岐・対馬」

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自粛生活で遠出をしない生活も2ヶ月目に入った。

自転車ガイドはもちろんない。中小機構の仕事は自宅でできる範囲だけで実際に支援先に行くことはない。実際は新年度が始まってこの一年、こうした自粛生活のなかでどのような形で進めるかという点で関係者と検討をしている。検討といってもオンラインで打合せ。今はやりのZoomというシステムを使ってのいわゆるビデオ会議だ。このビデオ会議を数回行いその前後に会議用の資料を作成するだけだ。

時間のゆとりがある今、前回に続いて宮本常一の「私の日本地図」。今回は壱岐・対馬を取り上げている。

この本は彼が昭和25年と26年に対馬、壱岐。そして11年後になる昭和37年、38年の両島訪問。最後の昭和49年の対馬を訪れたときの記録だ。

戦後間もない昭和25年から政府の調査団の一員として島を訪れ漁業を中心とした島の状況を調べている。数週間滞在し島の小さな村々を訪問し地域のリーダー、古老から話を聞きそれを書き留める。古文書があればそれを徹夜して写し書きをする。バスがないところには何Kmでも歩いて移動。その先々で民家に宿を借りたりしながら精力的に回ったようだ。

突然訪れた都会の人に地元の人はどのような反応をしたのだろうか。よそ者を寄せ付けないことは容易に想像できる。あまり相手にされなかった様子も書かれているが殆どの場合、彼はじっくりと話を聞くことができたようだ。それは彼の人間性によるものだろう。

そして民俗学者として地域の実情を単に調べてきろくするだけでな地域の発展をこころから願ってそのための助言を続けていた。中央からの補助に頼るだけの姿勢がみられる町、村では自助努力をすることを諭し努力が見られないところには大声で叱責する。こうして彼は旅をしたその地の発展を願いそのための努力してきた。巻末にある「宮本常一にとって、旅とは、旅によって結縁した土地を背負うことだった。」という言葉が見事に当てはまる気がする。単なる学者を超えた人間のようだ。

冒頭に書いたように彼は昭和25,26,37,38,そして49年に島を訪れている。当初は貧しい村々の写真だった。それが経済発展をとげ新しい家屋になり道路が作られた。こうした経済発展によって島の様相が欧米風に変わっていく姿を見て、「島内の生産や文化が進み、島民の自主性が高まることが第一で、そういう姿を島外の人たちが観光に来るようになることが理想だと思っていいる。しかし、もとからここにすんでいる人たちの生活は必ずしも本当に向上を続けているのだろうか」と島の生活が向上しない中で単に島外からの観光客が増えていることを心配してる。

最後の昭和49年の訪問時には25年当時とは遥かに近代化された町並みの写真が掲載されている。私が生まれた頃の周囲の変化と同期された変化をこの本の中に見たきがする。

島の現状の姿をストリートビューで見るにつけ相変わらず狭い平地に家が見える。それなりに現代風の家屋がならんでいるが実際の生活はどうなっているのか。この目で是非見たい。

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