カンボジアの首都プノンペン

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素晴らしい異文化体験をして去り難かったヤンゴンから一旦ベトナム・ホーチミンシティー経由でカンボジア・プノンペンに飛んだ。Hotel Zing Phnom Penhにチェックイン。セントラル・マーケットの近くにあり古いビルの一部をキレイに改装している。2200円。ホテル向かいにあるインド料理屋で夕食。

翌日はトゥクトゥクを半日借りて今回のカンボジア旅行で是非とも行きたかった場所をおとずれた。

プノンペン市内の動画

キリング・フィールド

30年以上前にアメリカで出会ったカンボジア出身の青年、ヘモワン。彼は1975ー1979年までのポルポトによる都市の破壊、大虐殺をかろうじて逃れてフランスに渡った後でアメリカに来たと言っていた。その時は彼の話を聞いてもあまり印象はなく聞き流していた。その後で少しづつ情報を得るにつれて興味を持っていた。その大虐殺の現場をキリングフィールドと呼ぶ。現場に立ち、博物館でじっくりと解説を聞くことができた。重い気持ちでした。

トゥクトゥクでプノンペン郊外にあるチュンエク大量虐殺センタというすごい名前がついたキリングフィールドに行った。市内の収容所で罪があるとみなされた市民がここに送られて虐殺された。銃弾がもったいないということで全て鎌、なた、棍棒での虐殺。毎晩行われる虐殺の時は悲鳴が周辺に聞こえないように大音量の音楽を流しながら行われた。なんとも言い難いここで表現するのもはばかるような扱い方だったそうだ。こうしたキリングフィールドがわかっているだけでも国内に300ケ所以上有るそうだ。

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そして市内にあるツールスレン虐殺博物館。高校の校舎に市民を収監して拷問にかけ罪状を作り上げるとキリングフィールドに送り込んだ収容所。独房や有刺鉄線も残っている。

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いずれも音声ガイドが非常によくできている。

こうしたことが遠い昔のことではなく自分が生きていたたった40年前に起こっていたことに驚愕。自分の世界を見る目の狭さに落胆した。まあこの事件はポルポトが1979年にカンボジア西部に逃亡するまで誰も知らなかったらしい。

昨年の夏にナチスによるユダヤ人収容所の1つを訪れた時と同じような感覚だった。人間って怖い動物だ。

改めてヘモワンが幸運だったことに感謝しながら彼の消息が知りたくなった。

国立博物館

そして、市内の国立博物館。圧倒的な仏像の展示が素晴らしかった。クメール文化の最盛期の作品のようだ。貧困すなわち文化レベルも低いとは言えないと感じた。

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ホテルにもどってこの日はホテル近くの中華料理屋で夕食。この辺には貴金属店があり例によって中国系の人が経営している。中華料理屋も多い。

そしてカンボジアの経済発展

ミャンマーの衝撃があまりにも強かった。ホーチミン経由でプノンペンに来てもカルチャーショックは全く感じられないで物足りなく感じてしまった。空港からダウンタウンまでの道すがら見える風景は他の東南アジアの都市と同じだ。なんとなく空虚感を感じた。
街の喧騒と渋滞だけはミャンマーと同じだが建物はみんなそこそこに綺麗だし車もしっかりと左ハンドルの新車が多い。ミャンマーみたいに全て日本の右ハンドルの中古車と言うことではなく韓国、中国、ヨーロッパの車が走っている。

翌日の午前中はホテルでゆっくりとしていた。旅が始まって2週間近くなったので休息日だ。それでも昼過ぎに王宮まで歩いてみた。

王宮に行くと華美ともおもえる建物だ。日本の皇居と同じ位置づけなので当然かも知れない。

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そして、青山かと思えるようなおしゃれな店が並んだ通りもあるし8000ドルの値札が着いたMTBを陳列した自転車店もあった。富裕層があるわけだ。

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ホテルにもどってこの日の夕方はホテルから少し離れたところのレストランに出かけてみた。外人が多く歩いている地区にあるので外人向けの料理があるかと期待していた。ビールを飲んで行き交う人達をみていると確かに外人が多い。そして地元の女性と思える人達が体の線を協調したような衣装を付けて闊歩しているのが目立った。カンボジアの女性はあまり着ないような衣装だ。しかも店の向かいには夜9時に開店と電光掲示板で示す店がある。改めて今いるレストランの客を見てみると長逗留していそうな外人が沢山。ちょっと異様な雰囲気。居心地が悪くなったので退散してホテル近くの中華料理屋で夕食。安心できる。

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