炭焼が歩いた古道ハイキング@檜原村

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檜原村の古道ハイキング。NPO法人さとやま学校主催のイベントに参加してきた。ここが主催する同様のイベントには3月に参加した。こうして、これまでこの辺を何回も訪れて次第にわかってきたことがある。

檜原村は江戸時代から炭焼きが主要産業だったそうだ。炭焼で生計を立てていた人は山の上に家を建てその周辺を開墾して畑にして自給自足の生活をしていた。ところが石油の登場によって昭和40年ころには炭の需要がなくなりそれまで炭焼で生計をたてていた方の多くは山を降りた。多くの人が山を降りたことで畑があったところが今では森林になっている。衛星写真を見ると一目瞭然。(白いところが開梱されたエリア)

森林の変化

炭焼き以外の生計手段を得て住み続けた家も次第に高齢化に伴って空き家になっている。多くの家は空き家になり朽ちて消えているが今でも残っている家がある。中には新たな住人が移り住んでいる家もある。また、家の後継者(子供世代)が都会に住みながらかつての家を維持しながら週末に過ごしていることもある。

今回は、その昭和40年ころまで炭焼きをしていた方がかつて住んでいた家、炭焼きで通った道、炭焼き窯跡を案内してくれ、その道すがらにある道祖神、馬頭観音像などを調べている方がその解説をしてくれるというなんとも贅沢なイベントだった。

東京都の西の端にある檜原村のさらに西の端にある集落である藤倉に集合。今回は10名以上が参加した。まず檜原村の25年前に移り住んでから道々の馬頭観音や石仏を研究している森満也さんから出発点の目の前にある石塔群の解説。庚申塔、馬頭観音、などが多数。多くは1800年代に作られてものとか。こうした石仏は仏教とは直接の関係はなく中国、インド方面から伝わった亜流の信仰をもとにしているようだ。

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しばらく舗装路を登って小林家に登るケーブルの乗り場付近から山道に入った。地図にはない急峻な道で地元の田倉栄さんのガイドだ。
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途中にはかつて家があった場所もあるが木造家屋は朽ちて消えていた。後ろの石垣だけが残っている。
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ガイドの田倉さんはこの上にある家に昭和40年、30歳ころまで住んで家業の炭焼をしていた。炭焼をしながら通信教育で教員資格を取り炭焼をやめた後は地元の小学校で教師をしていたという方。現在83歳。しっかりした足取りで急な山道を登っていくとそこに彼が住んでいた田倉家についた。

家のすぐ下には大きな杉の木がありその根元には小さな泉があった。かつてはここが貴重な水源だったそうだ。
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そして田倉家。現在は住んでいないが内装はきれいに維持されておりいつでも使える。水は近くの泉まで汲みに行く。風呂は10日間くらいは湧き返して使う。昭和30年代に電気が通じるまではランプ生活、水道はない、暖房は囲炉裏とヒバチ。隙間風がとおる木造家屋はなんとも過酷な生活だったと想像できる。

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遠くに山の尾根を見下ろす庭で田倉さんが炭焼き釜の構造、生活の様子を説明してくれた。なんとも生の声を聞くことができて感激した。

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彼の話によると、炭焼は家族総出で12時間労働。炭焼き窯に行き、周囲の木を切り倒し小さくして釜に入れる。完成した炭は一俵15kgで300円くらい。一日に3~4俵、月に90俵くらい出荷できるそうだ。これを背負って山を降りる。昭和30年代後半、一般の日当が500円の頃。
春~夏は養蚕、秋~冬に炭焼きで生計を立てていたが炭焼のほうが実入は良かったそうだ。

そんな話を聞いた後で再び山道を登って尾根の上にでる。ここは檜原から奥多摩湖まで通じる道でなんと都道。実際はハイキング道になっている歩きやすい道だ。

途中で田倉さんがかつて利用していた炭焼き窯を見学。こうした釜が各所にあった。

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さらに進むと8000年前の中の平縄文遺跡がある。標高950mにあるここは都内で最高地点の縄文遺跡。
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昭和35年と49年にここの遺跡発掘をした際に研究者が帰途に見た小林家住宅の価値を高く評価しこの家は後に重要文化財となった。

遺跡跡から戻ってその小林家住宅を訪問。ここは解体、再構築した後に平成27年から公開されている。この近辺の住宅構造を残した良質の建築物。数年前にきたことがある。

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きれいに整備された住宅はあまり好きでないがここでしばし休憩してから旧藤倉小学校に戻って解散。

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