5月9日 下北半島ー霊場恐山、津軽・南部藩境、その他

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「霊」と言う漢字にはいい印象がない。霊感、霊媒師、心霊、、、なにやら人間の負の部分を暴き出すようなイメージがあるからだ。その上に「恐」と言う漢字がついたこの場所が「霊場恐山」。そんな名前の場所なので事前に何も調べてなかった。時々TVで紹介される程度の知識しかないし、信仰の対象外なのでここは単なる観光地として訪れてきた。

なんとも落ち着かない気持ちで1時間ほど歩いた。誰かの霊が付くのでは、自分の中の負の部分を知られてしまうのでは、と言った不安を感じだ。確かに見える景色は尋常ではない。硫黄の匂いも強い。不気味な感じがする。名前からして「地獄」とかが付いているし。見るものを見てさっさとここを後にした。

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観光地的なネームバリューはこの恐山が大きいはずだが今日のハイライトは違う。野辺地にある藩境塚、斗南藩士上陸の地、かな。

藩境塚

浅虫温泉から30分ほど車で走ったところが野辺地町。ここには南部藩と津軽藩との境があると「街道を行く」に書いてあった。野辺地に入ったところで公民館の駐車場に車を置いてから自転車で出かけてみた。場所は地図に載ってないので通りがかりの老人に聞いた。「この先1Kmくらい」と方向を指さした。ベクトルが分かった。しばらくして今度は工事中の交通整理のおじさん。地元民ではないので分からないとのこと。次は道端で立ち話をしていたご婦人。意識しいて標準語を話しているのがよく分かる。「あと300位で右側に駐車場がある、そこです」。それらしい駐車場が見つかった。そこには、3mほどの土盛が小さな水路を挟んで2つづつある。これが境だそうだ。津軽と南部は秀吉のころから対立していた。戊辰戦争のときは奥羽越列藩同盟を結んだにもかかわらず津軽(弘前)が裏切って突然南部を攻めたこともある。この時は津軽が返り討ちにあったそうだ。そんなこんなの話が沢山ありこれまで南部と津軽は対立していたらしい。青森の屋台でママに聞いたらいまでも飲んだときはお互いが南部と津軽とわかると一瞬会話に間があく、とのことだ。まあ、長州と会津との関係みたいなものでしょう。

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その藩境の近くに戊辰戦争で裏切って戦った時の南部の戦死者の墓があった。

斗南藩士上陸の地

陸奥湾に沿った一本道をどんどん進むと現在のむつ市大湊に着く。ここはかつては田名部と呼ばれていた。ここに会津藩士が会津を追われ、斗南藩士としてここに上陸したところがある。5000人の藩士の多くは徒歩で飢えに苦しみながら歩いてここに来た。そんな辛苦を見かねて明治政府がイギリスの船で多くの藩士をここまで運んだらしい。会津藩士は斗南に来てからは絶筆に尽くせないほどの苦労をしたようだ。それにもかかわらず斗南藩士の多くが後には明治政府の要職に着いた。素晴らしい。

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ところがこの藩境については異説もあるようです。浅虫温泉についたときに周辺をランニングしていたらこんな案内がありました。青森から浅虫温泉に入る直前に大きな岩を繰り抜いてトンネルにしたところにありました。
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北洋館

大湊は江戸時代から港町として栄えてきた。そして明治からは軍港としての役割を担った。今は海上自衛隊の施設があり巡洋艦等の基地になっている。ここで巡洋艦の内部を見学するツアーがあると観光案内所で聞いたので行ってみた。ところがこの日は停泊している巡洋艦はない、とのことでツアーは無かった。残念。

その代わりに「北洋館」と呼ばれる資料館を見学した。石造りの立派な洋館。おしゃれだ。ところが中は実に素朴な昭和を感じる展示。つまり、ダサい展示。いろいろなものが取り留めもなく展示されている。その解説も手書き。この地域に関係した戦いの資料が中心になっている。函館戦争の資料、日清戦争の時の写真等、さきの戦争の時の地元からでた特攻隊員の遺書、海軍の制服、銃器、、、、さまざま。

とにかく集まった資料を全部展示している印象がある。展示に流れがないがそれでもいろいろと興味がある展示物があったのでしっかりと見てきた。戦争中の千人針とか赤紙など初めて現物を見た。

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左に陸奥湾の海を見ながらまっすぐな道をどんどん進んで今日の「道の駅わきのさわ」に着いた。寂しいところだ。今夜は2台だけ。

ついでながら。ここにも地方自治体が作るだけ作ってその後の維持費が不足して荒れている施設があった。北限の猿を飼っている施設。維持費が不足したら飼われている猿はどうなるんでしょうね。

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