生き甲斐病

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今年の春から支援先の企業数を減らし、現在は3社のサポートに絞っている。かつては7社ほどを担当していたため、半分以下に減らした形だ。その理由は、多くの企業を抱えていると長期のクルマ旅の計画が立てにくくなるから。

企業数を減らしたことで、3月には九州へ1ヶ月間行くことができ、その後の予定も大幅に減った。新たに獅子舞保存会と敬老会の役員を引き受けたが、それほど頻繁な活動があるわけでもなく、生活に少し余裕ができたように感じていた。

事実として、企業に出向いて経営者と対話することは少ないとはいえ、それなりのストレスがあり、事前準備にも時間と労力を要する。そのため、支援先が減ったことで、心の安らぎを感じる日々が増えてきた。

しかし、安らぎのある生活も度が過ぎると問題。時間に余裕ができると、自分の生活を振り返り、「これでいいのか」と自問し始める。どうやら私はそういう厄介な性格のようだ。

余裕のある生活は、「生き甲斐のない生活」と感じてしまうことがある。毎日仕事に追われる生活を望んでいるわけではないが、余裕があるだけで緊張感のない生活は張り合いを感じない。

こうして時間に余裕ができると、最近は何をするか探す時がある。先日は午後に図書館で本を借り、マクドナルドで時間をつぶした。まさに「暇つぶし」。

こんな風に余裕のある生活を送っていると、「これでいいのか」「自分の生き甲斐は何だろう」と考え始める。いわゆる「生き甲斐病」だ。現役時代にも、仕事に余裕が出ると「今の仕事でいいのか」と疑問を抱き、転職を考えたことが何度かあった。実際に転職したこともあった。退職後も同じ感覚に襲われるのは、貧乏性なのでしょうか。

現役時代には、毎日仕事に追われることが家族の生活を支えることでもあり、ある意味で「生き甲斐」になっていた。しかし、退職後はどうすれば良いのでしょう。退職後も、ストレスの少ない形で楽しく仕事を続けられれば、それが最高の生き甲斐だと思う。社会貢献もできて、まさに理想的だ。

しかし、生涯現役で仕事を続ける人はごくわずか。そうであれば、望ましいのは、毎日没頭できる趣味を持つことではないか。暇さえあれば没頭できる趣味を持ち、ストレスを感じず、時間を忘れて打ち込める何かを見つけることが理想かも知れない。

その意味で、自分が趣味だと思うことに本当に没頭できているのかを考てみる。例えば、サイクリングや登山・ハイキング、旅や散歩、ネットでのバーチャルツアー、ピアノを弾くことや本を読むこと、野菜栽培など、これらの活動は生き甲斐となっているはず。それでも、時々心に「スキマ」を感じるのは、これらの活動に本気で没頭していない時があるのかもしれない。つまり、ただ暇だからやっているだけで、それは「暇つぶし」に過ぎないのかも知れない。

暇つぶしばかりしていると、心に隙間が生まれ、「生き甲斐病」が再発する。

「人生は壮大な暇つぶし」という言葉があるようだが、確かにその側面はあるでしょう。しかし、暇つぶしとは、受動的に人生を送っている姿であり、暇だからどうやって暇をつぶすかを考えながら生きるのは、少し残念な生き方だと思う。できれば、生き甲斐を感じて能動的に生きたいものだ。

いずれにせよ、現役であろうと退職後であろうと、生き甲斐を感じて能動的に没頭できる何かを持つことが必要でしょうね。能動的であるとは、暇だからやるのではなく、暇さえあればやること、さらに暇を作ってでもやるようなこと。

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